第二回【ボストン美術館浮世絵名品展】対決!

「芸術不要説」とボストン美術館浮世絵名品展  村松恒平



「日本人には芸術は要らないのではないか?」という疑い。
この異物が最近僕の頭の中の全域に地下茎をはりめぐらし、ぐんぐんと成長している。


芸術とは、ここでは主に西洋絵画のこととして考えて行こう。
西洋絵画は当然西洋から来たもので、もともと日本にあったものではない。
それを日本人が学び、真似して描いてきたのである。
そして、それは一部しか日本に根付いているとは言えないだろう。世の中のほとんど誰も(と言っていいくらい)日本人が描いた絵画作品を買わない。
その件については、こういう一つのロジックの轍があるように思う。


「絵画作品が売れない。
売れないのは、日本人の芸術に対する理解や民度が低いからだ。
人々が芸術をもっと理解するようになれば、買うようになるだろう。
そのための努力をしなければいけない」


これは、西洋崇拝である。芸術を高いものとみなし、それを理解できる高さまで日本人を引き上げようという考えである。


芸術が不要ではないか、というのは、言い換えれば、上記の「芸術は高度なもの」というのがたいへんな転倒ではないか、という疑いである。


日本人は、芸術に依らずに美しいものを生産消費しているのである。
このことを考えるとき、僕の頭に最初に浮かぶのはキティちゃんである。
ご当地キティちゃんを見るたびに、いつも「日本人にとって芸術とは何か」と思考回路が動き出すのである。


女のコたちが、いわゆる「かわいいもの」がほしくなるというのは、立派な美的な消費であるだろう。その例としてキティちゃんを引くのは、すでに古臭いかもしれない。いまや日本のファンシーグッズは深化し、多様化し、日常化しているだろう。


芸術とそんなものを一緒にすんな、という反応があるかもしれない。いや、むしろそういうはっきりした反応があったほうが筆者にはありがたい。なぜなら、その考えこそが既成概念に囚われた石頭だと指摘できるからである。



たとえば、「キモかわいい」という言葉を分析してみればそのことがわかる。
これは、じつは「キモい+かわいい」の足し算や、それを2で割ったものではない。
「キモい」と「かわいい」この全く違う二つの極、この二つの極の中間に生じる磁場の中に「キモかわいい」という領域は存在するのだ。
「キモい」、「かわいい」という確立された言葉は、意味である。しかし、その中間に存在する磁場は、意味ではない。美意識そのものである。
定義によってその領域が規定されるのではなく、「これはキモかわいい」「これはキモかわいくない」と感覚によって規定されるからである。


「キモかわいい」という言葉が発明された途端に、日本人のほとんど全員がその意味を了解して共有されてしまう。それは、日本語の可塑性、柔軟性にだけによるのではない。そのバックグラウンドに非常に高度に洗練された美意識の伝統があるからこそ伝わるのである。


たとえば、ちょっとしたアクセサリー、日用品、文房具、携帯ストラップから、食器、クルマに至るまで、日本にはたいへんなデザイン上のチョイスがある。
この選択と消費は、機能に関わるものではない。
日本人はちょっとした意匠の変化で消費を楽しむのだ。


ユニクロが日本で成立するのも、新しい安いものに飛びついてはすぐに飽きるからだ。英国では、このような丈夫で高機能な服は捨てられることがないので、みんな1,2枚買うとそれで間に合わせてしまう。そのあとは売れないから、ユニクロは英国では決して成功しないと言われている。
つまり、日本人はモノを買っているのではなく、買うときの気分、着たときの気分を買っているのだ。気が澄むとまだ充分に着られる服でも無価値になって処分してしまう。
だから、ユニクロの服は丈夫でも売れ続ける。


消費を楽しむということでは、ドラッグストアもそうだ。昔は薬局や小さな薬屋はあったが、ドラッグストアはなかった。ドラッグストアで売っているもののほとんどは30年前には存在しなかったものである。
ということは、ドラッグストアでは、人々は本質的に必要のないものを競って買っているのだ。


化粧品、健康グッズ、医薬。
化粧などは、莫大な費用をかけてかっこいいデザインで宣伝しているから何か立派な行為のように見えるが、もともとどこかの原住民が顔に入れ墨をするような、呪術、まじないの類であり、原始的アートなのである。
医療もまたその根源は呪術であるからして、ドラッグストアは、現代に蘇ったおまじないの宝庫なのである。
要するに、いらんものをまじない的にチマチマと買うことで、日本人は西洋人が芸術に求めるものを消費し、満たしているのである。


チマチマでなくても、高価なブランド物のバッグを買うのも同様である。識者がいくら「ブランド物は本来一生モノだ」、と口を酸っぱくしても、1年に1回、半年に1回新しいブランド物のバッグを買わないと気が澄まない女性たちがいる。
これは、物を消費しているのではなく、ブランドの新製品という象徴を消費している。人としてはどうかと思うが、美的消費としてはスジが通っているのである。そして、その盛大な散財によって、ブランドという美的商品文化を支えているのである。



以上に見てきたように、日本人にとっては、美しさは消費物の中に拡散して存在するのである。
生け花や、茶道でも、肝心のものは形で残らない。
日本人はモノ以前の心を消費するのだ。
ヨーロッパの彫刻や絵画のようにどっしりしたモノが、何百年も残られても日本人には鬱陶しいだけなのだ。
だから、ピカソやダリやゴッホや印象派の展覧会は見に行くが、美術作品は所有したくないのだ。それよりはオシャレなインテリアや日用品のほうがいい。


西洋人が芸術を必要とするようには、日本人は芸術を必要としない。
ヨーロッパには、歴史的芸術作品がたくさんあるが、ファンシーショップや、ドラッグストアは少ないであろう。
彼らが「キモかわいい」を理解するには時間がかかるだろう。
土壌が違うものを一律に比べても仕方ない。


日本の美術教育は、西洋美術の教育であるから、その技術や知識を身につけた者は、それを広く理解してほしいと願うのは当然のことだが、それは自分の「都合」というものだ。
自分の都合を文化のモノサシにしてはいけない。


*


……というわけで、日本人は安価な大衆消費物の中に、自らの美意識を育んできたのだという話であった。



で、浮世絵である。
「ボストン美術館浮世絵名品展」。たいへんに保存状態のいい浮世絵が大量に見られる。色が鮮やか、細部が鮮やか。浮世絵のハイビジョンと思えばよろしい。


大衆消費物という話の枕で、浮世絵、なんという芸のない当たり前の展開、と読者は思うかもしれない。


ところがである。


困ったことに僕の眼には浮世絵はちっとも大衆消費物に見えないのである。
芸術に見えてしまうのである。


これは、歌舞伎も同様で、かつて非常に大衆的な演劇であった、と言われても、そのような見どころがわからないのである。
芸術ではなく、素直に娯楽として楽しむには、ある程度の素養が必要なのだ。
で、その素養やら教養やらは残念ながら僕にはないのである。


……というわけで、今回の僕の個人的なミッションは、いかに浮世絵を芸術から大衆消費物に引き下ろし、当時の人々の視線に近い視線で浮世絵を見るか、楽しむか、ということにあった。


この企図は展覧会場において成功したとは言えない。
いちばん眼を惹いたのは、着物の色や柄である。浮世絵は、中期以降、たいへん色鮮やかに進化を遂げている。
おおぜいの女性が描かれた浮世絵でも、一枚一枚の着物の色と柄がていねいに描きわけてある。それも木版で彫って、刷り分けるというのは、気が遠くなるような細やかさだ。


浮世絵は、雑誌や新聞の機能も持っていたと言われるから、そういう見立てでいうと「これは、女性ファッション誌か?」と思ってしげしげ眺める。
かんざしなどの小物や柄の細部など、眺め出すと切りがない。
細部に注目すると全体が把握できない。


読み取り速度が遅いのだと思う。
女性が雑誌のファッションページをチェックするスピードは異様に早い。それで見るべきものは見ている。
だから、きっと当時の女性は、そういう視線で、いかに細かい柄が再現されているか。いかに流行の色が取り入れられているか、版画の絵師や彫り師、刷り師、版元の力量まできちんと読み取って浮世絵を選んでいたに違いない。ひいきの作家や版元もあったに違いない。そういう評価の眼がなければ、表現はここまで発達しない。


……そんなことを考えつつ、会場を巡ったが、やはり、浮世絵は芸術のままである。
さて、どうしたものか。日本文化は、西洋文化に比べて概括的にとらえて語ることが難しい。限りなく細部に精通していくしかない。
仕方ないので、参考書を買ってきた。


『すぐわかる楽しい江戸の浮世絵-江戸の人はどう使ったか』(東京美術)。 「どう使ったか」というのがいい。以下、事実関係などはこの本に依るものが多い。


まず価格。
江戸時代、かけそば16文のときに、20文という記録があるそうだ。
300〜500円くらい? もっと安い廉価版、もっと高級版もあったようだけれども、およそ、雑誌くらいの価格だと言っていいだろう。


その役割の多様性も現代にあてはめて想像してみなくてはなるまい。


*まずよく言われるように、人気役者のブロマイド的役割があった。


*各種雑誌的役割。週刊誌、ファッション誌、芸能誌、旅行誌、キャバクラ雑誌、スポーツ紙、その他、娯楽系のグラビア雑誌ですな。


*春画は、エロ本というよりアダルトビデオ。


*団扇絵は、張り替えて使ったものらしい。これなど、カバーが替えられる携帯とか、携帯ストラップにも例えられよう。なにしろ団扇は携帯扇風機だから。


*化け物絵、血まみれ絵はホラーやスプラッタ映画。


*勇ましい武者絵は、アクション映画やマンガ。


*他に双六などのゲームやおもちゃがあり、これは現代のテレビゲームに通じるものがある。


このように現代的役割に要素を因数分解していくと、けっこうな広がりがある。
少しわかったような気がしないこともない。
しかし、何か決定的には腑に落ちない。
まだ芸術っぽい。


江戸の人たちは、かなり浮世絵に夢中だったに違いない。
その熱中がわからない。
そういうものが大衆的なもので他に何かないか。




ありました!



メンコ。



僕にとってはコレです。


↓メンコのお宝画像


http://tenshu53.exblog.jp/4912884/


しかも『0011ナポレオン・ソロ』のメンコがあった!
ナポレオン・ソロというのは、僕が小学生の頃に大人気だったスパイアクション。007のアメリカ版だけれども、金髪の相棒のイリヤ・クリアキンと二人で、どんな命が危ないピンチのときも軽口を飛ばし合う、という軽さが斬新だった。
ソロとイリヤ(声優は矢島正明と野沢那智)の軽妙なやりとりは、その後のドラマやアニメなどにも多大な影響を与えている。のではないかな、たぶん。


さて、このメンコは二人の顔写真の背後に美女を配したり、ヘリを飛ばしたり、狭い画面になけなしの素材を活かしてがんばっちゃってる。そして、ナポレオン・ソロの持っている銃、モーゼル・アンクルタイプといって、これがサイレンサーつきだったり、スコープつきだったり、肩当てが増設できたりと、当時としてはわくわくの最先端のかっこよさだったのである。


このメンコはほしい。
メンコ・フェチ。
当時持っていたら、普通のメンコ、5枚くらいと交換すると思う。



………と言われても、知らない人にはいろいろなニュアンス、ピンと来ないでしょう?



それと同じことが浮世絵にもあるのだと思う。
だから、芝居のある場面を演じる役者絵があったときにも、それにまつわる江戸人の思いのニュアンスや浮世絵に対するフェチなんて、きっとわかる人でもせいぜい15パーセントくらいしかわからないんだと思うのだ。


このメンコを見て、僕は浮世絵が少しわかった。
つまり、いちばん熱狂的な部分のニュアンスはわからん、ということがわかった。


アニメやマンガ、イラストレーション、ニコニコ動画、携帯関連の文化。
日本の大衆文化は連綿と続いている。
日本人は大衆文化をどんどん開発し、高度に洗練させていく。
それらはまだ当分芸術にはなりそうもないけど、芸術なんて名前はどうでもいいことなのだ。


浮世絵が陶器の包み紙として西洋に渡り、芸術として評価された、という話は有名だ。
で、その先はたいてい、日本という国は自国の芸術的財産をきちんと自己評価できなかった国だという話に落ちる。
しかし、それもずいぶん倒錯した理屈である。
日本では反故にするほどありふれたモノが、向こうに行ったら偉大な芸術作品になった。
それは日本が美術において宝の山だったということである。
松茸の山を持っていた人と、それをとって食べた人、という関係でしょう。
当時の人にしてみたら、「松茸がおいしい?
そんなキノコなら、おらの山には山ほど生えているからそんなに気に入ったのなら好きなだけもっていけ」ということだったでしょう。
この素朴さ。日本のほうがすごいじゃない。


浮世絵にヨーロッパの名だたる画家たちがひれ伏し、ボストン美術館もていねいに収集して、お宝として保存している。
そのことは自慢なのか。
日本の屈辱なのか。


これは、日本の大衆文化に連続性を感じているかどうかで決まる。
たしかに浮世絵そのものの伝統は、絶滅に近い。か細くしかつながっていないだろう。
しかし、こと、大衆文化となると、マンガやアニメはいまや世界に冠たるものだ。


浮世絵とマンガ、アニメは


*細かい手仕事であること
*有名無名の人々の集団制作であること
*商品として以外のいかなる芸術的価値も自ら主張しないこと
*海外での評価が逆輸入されていること(浮世絵と違って同時代であるが)


このような点において、浮世絵と共通のものがある。
しかし、マンガはマンガであって、別のモノサシでの評価を必要としていない。
今年、上野の森美術館で行われ、たいへんな行列ができた『井上雄彦
最後のマンガ展』は、美術館というメディアのサイズに拡大されたマンガであって、井上雄彦の意図は、マンガの美術(としての評価)化を目指したものではなかった。
そんなことはマンガがマンガとしての生命を持っている限り必要ないのである。


それと同様のことが浮世絵にも言えたはずで、浮世絵は浮世絵として買われるという以上の評価を求めていなかっただろう。
西洋の浮世絵を見る目が日本よりすぐれていたということではないのだ。


僕はいま、どんな眼で浮世絵を見ればいいだろう?
遠いような近いような、よくわかるようなわからないような。


これだけ理屈をこねて、たいへんな遠回りをして、改めて図録を見ると、ようやく、浮世絵は、美しい絵柄そのものとして、少しだけ心に沁みてきた。
絵を見るのに、心はなんとたくさんの雑音に満ちているのか。
静かな場所は少ない。


目の保養という言葉があるが、雑音が出尽くした静けさの中で、よいものを見続けるのは、まことに目の保養だ。目が肥えると言うのは、そういう体験の積み重ねなのだろう。



そうなれば、もはや言うべきことは少ない。


*


ボストン美術館浮世絵名品展。文字通りの名品展。
みなさんもこの機会に、ぜひ目の保養におでかけください。



■芸術についての蛇足的補足■


この小論は、大衆文化と芸術を対立させて、純粋な芸術概念を貶めるのが目的ではない。
いま、アートマネジメントというものがブーム(芸術界の中で)であるが、芸術を社会化し有用化する機能機運が生まれるのは重要なことだ。
しかし、芸術を有用なものとして取り上げようとすれば、不要な部分もまた際立ってこざるを得ない。中途半端に有用な芸術であれば、大衆文化を下に見るべきではない、という主旨である。


表現者にいっそ「不要」を超えて、「無用」になる覚悟があれば、「無用の用」というものも生じよう。そのとき、概念としての芸術はようやく対極において大衆文化とつりあうのではないか、と僕は考える。


補足になってないか。



■江戸東京博物館 URL

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/



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[ムラマツプロフィール]

本名 村松恒平。自称哲学者。
哲学者というのは、芸術家と名乗るのと同じで、「ナニモノでもない」と言っているようなものであるが、ひょっとしたら、なにをエラそーに、と思われているのかもしれない。
人には「編集者」だと紹介されることが多い。「元『宝島』の編集者」だと紹介されることも多い。それって、もう30年前なんですけど…。
近頃は編集者よりは「物書き」のほうが近い。
最近、自分でもナニモノかよくわからない。
興味のある方は下をつついてください。


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