第一回【【国立新美術館●静物画の秘密展】】対決!

『静物画の秘密』の秘密をバラす  村松恒平

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静物画? おお、つまらない! というのが我が裡の第一の反射である。
しかし、『ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密』。
秘密というからには、そこにはすごい秘密があるのだろう。
そして、その秘密の鍵をそっと手渡されたものだけが、重い扉を開けて秘められた絵画の快楽をむさぼるのであれば、……ゲットするしかない! と僕はそのク エストに出かけたのである。


……でどうだったかというと、これはたいへん面白い展示である。


静物画がつまらない、と思っていたのは、静物画を描くモチベーションが主に質感を出すような表現の技法を誇示することにあるように感じ ていたからだ。
西洋古典画の他のお宝作品と混在して並んでいる展示だと、どうしても解説や関心が技法に偏りがちになる。
しかし、この展示では、静物画だけを系統的に並べることで、むしろ、静物画を技法という観点の重力から解放して、宙空にあるような軽みを感じさせる。
それが芸術の本来だろう。


最初の部屋では、果物や花、解体されかけの畜肉の並んだ市場の風景を静物画の先駆けとして展示してあるが、これでまずほっとする。
市場で働いている人や買い物に来ている庶民の表情や眼がいい。
即物的であったり、楽天的で好奇心に満ちていたり、無知で残酷であったり、勤勉であったり、利害で素直に動きやすい感情であったり、さまざまなものがその 眼から読み取れる。
一言でいえば、猥雑であるわけだが、当時の画家にたぶん猥雑という言葉のフィルターはないから、意図的に強調された表情ではない。


たぶん、彼らは、一週間後のことも、一か月後のことも、一年後のことも考えていない。もちろん、我々のように、十年、二十年後のために 保険や年金を支払うなんてこともない。今日の興味や義務だけで生きている人たちの表情がほとんど生きて保存されている。これはすごい絵の魅力だな。


*


しかし、入り口でばかり感心してはいられない。
静物画について語ろう。


*


静物画の一つの魅力は「これでもか!」という過剰にある(ということがこの展示でわかったのだ)。


僕はかつて絵を描くために花を買いに行ったことがある。
芸術であるからして、当然、既存の花束ではなく、自分が絵に描きたいと思う花を選ぶのである。しかし、花屋では、安いわりにはこの花はいい、とかコストパ フォーマンスを計算する余裕はない。直観的にこれとこれ、と指ささなくてはならない。
芸術のために出費は惜しまない! という気持ちと、一体いくらになるのだ、という計算がせめぎ合って、一つの濁流となったのである。
その濁流に流されるままに支払った花束3,700円。
牛丼なら10杯食える。
それが芸術の原価として費消されたのである。
しかし、描かれた絵に誰かが牛丼10杯より高い値打ちを見つけ出すとは限らないのである。いや、見つけ出すどころか、その価値は存在するかどうかすらわか らないのである。


花は枯れる。果物や肉、魚は腐る。
それを絵に描きとめることは、たいへんな蕩尽と紙一重である。
もちろん、絵のモデルを終えた食物は食べることができよう。しかし、その思惑、算段も含めて、一枚の静物画を依頼するということは一家にとって大事件で あったに違いない。
とにかく、自分が依頼する以上、貧しさ物足りなさではなく、豊饒な感じ、新鮮さ、生命感、リッチな感じをださなくてはならない。
盛りだくさんのごちそうと、自慢の器物。背景の天鵞絨の布。あれも入れよう、これも入れたいとやきもきする金持ち、貴族たちの右往左往が眼に浮かぶ。


画家はそこに広告カメラマンのように一歩下がって立って、あれこれと指図しながら、騒ぎがおさまるのを待っていたのだろう。
クライアントの機嫌をそこねてはいけないし、いい絵を描いて注文を増やしたい。しかし、どこか距離を置いて、冷ややかでもなくホットでもなく、生ぬるい温 度でじっと騒ぎがおさまるのを待っている。
そういう姿が浮かんだとき、静物画はぐっと面白くなる。


そして、画面は過剰になる。
「奥様、こんなものを入れたら、もっとすごい絵であちらのお宅と差をつけられますよ」と奥方に耳打ちして煽る画家もいただろう。絵の題材が高価になればな るほど、絵のサイズも大きくなり、代金も上がる。現代の広告と同じだ(推測だよん)。


画家も、その過剰に対して、細部の緻密な描写、質感の微妙な差異の強調、背景などの執拗な描きこみ、という過剰を持って答える。
そういうドラマツルギーがあきらかにあっただろう。


その結果は…。
虚しい…。


この一言に尽きる。

したがって、静物画のテーマは虚栄、ということにいきつくのである。
やればやるほど虚しくなる。
虚栄は静物画の一大テーマとなる。
「絵に描いた餅」を全エネルギーを傾けて描くのであるから、当然の帰結である。
しかし、それはまさに芸術のアンビバレンツであって、画家たちは、それが嬉しくて仕方なくなってしまった、というのが、まさに秘密の真相であろう。


過剰が生み出す効果としての虚しさを、画家が遊び出すのである。


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たとえば、この『虚栄(ヴァニタス)』というそのものタイトルの絵は、俗っぽい比喩の過剰さにおいてヘビメタである。
地球儀の上のカメオ、これは皇帝シャルル五世である。世界をも我がモノにしそうな栄華、その死後70年が経った頃に、衰えを見せ始めたハプスブルク家を描 いたものである。


死を現す髑髏。火の消えた蝋燭。砂の落ちた砂時計。カルタ。金時計。美しい女性の肖像や財宝。戦争を現す銃と甲冑。すべてが時の流れと 栄華の虚しさを現すことに費やされている。調べてみると、シャルル5世は、美を愛し、美術を理解し、世界の宝物を収集し、建築にも力を入れた王であるよう だから、なおさら皮肉である。


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この『春・愛』という絵も、楽器を持つ男の周囲の散らかりようも尋常ではないが、背後の景色も5,6段に別れていて、そこに人物やできごとが散りばめられ ている。
こういうのも、顧客サービスであると同時に、画家自身が「まだ入る、まだ入る」と構図を工夫してぎゅうぎゅうに詰め込んだ過剰さがあって見飽きない。


そういう画家の遊び心にシンクロすると、静物画、見るほうも絵の中でけっこう遊べる。
あとは遊び上手かどうかだけだ。


秘密の鍵をたしかにゲットして、僕はクエストを終えた。


*


p.s.


この企画は、日本側の監修者の木島俊介氏が、8年がかりでウィーンの美術館を説得しつつ、準備したものだという。ウィーン美術史美術館 の担当者の話も聞いたが、かわいい子を旅に出すかどうか迷うような、作品に対するたいへんな愛着を感じた。
このようなていねいな企画が、日本でも愛をもって受け入れられるといいと思う。




[ムラマツプロフィール]

本名 村松恒平。自称哲学者。
哲学者というのは、芸術家と名乗るのと同じで、「ナニモノでもない」と言っているようなものであるが、ひょっとしたら、なにをエラそーに、と思われているのかもしれない。
人には「編集者」だと紹介されることが多い。「元『宝島』の編集者」だと紹介されることも多い。それって、もう30年前なんですけど…。
近頃は編集者よりは「物書き」のほうが近い。
最近、自分でもナニモノかよくわからない。
興味のある方は下をつついてください。

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